Story Of Someone

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 意識を取り戻した時、固い地面の上に仰向けで横たわっていた。

 ……気を失っていたのか?

 ひどい倦怠感。少し体を動かすと地面に接しているあちこちの骨がゴリゴリ擦れて痛みを感じる。そして闇。まったくの闇。時間が経てども真っ暗な中に何の輪郭も浮かんでこない、何かいつもと違うような闇。……それは俺が目を閉じているからだろうと三秒後に気付いた瞬間、違和感を覚えた。

 開きたいのに、目が開かない。

 だるくて咄嗟には動く気になれなかったが、やはりいつまで経っても自分の力でまぶたを持ち上げられないのが気になり始める。目やにか、それとも血が固まって上下のまぶたが引っ付いているのだろうか。

 ようやくギシギシと関節を鳴らしながら懸命に腕を持ち上げ、まぶたの上にそっと指を乗せてみる。するとその中にあるはずの球体の存在が感じられなかった。

(……え?)

 そのまま軽く押してみると、まぶたの隙間からヌルヌルとしたものがあふれ出てくる。血液なのか別の体液なのか。指に当たる皮膚はすごく頼りない、ぶよぶよとした感触。閉じられたまぶたの下にあるのはただ、何かしらの液体の溜まった穴だった。

(……)

 まぶたの上から指をすべらせて顔全体をおそるおそる撫で回す。目元付近が少し腫れているような気もしたが、それ以外は大した異常はないようだ。

 目覚める前の最後の記憶を思い起こす。そう確か……足をすべらせて踏み台の角に顔をぶつけ、目に激痛が走った。左目に……それは何となく覚えている。覚えてはいるが、今はその痛みを全く感じない。だが確かに痛かった。それはそれは悶絶するほどに……。もしかして痛すぎて痛覚がイカれてしまったのだろうか。その時にどれくらいの怪我を負ったのかは知らないが、何か頭の奥の方で「ピーー」という耳鳴りがしていて、これはヤバイんじゃなかろうかとは思っていた。しかし今は、眼球が……痛みの代わりなのか、眼球が……ない。

 

 頭の中で静かに動揺していると、ふと衣擦れのような音が近くで聞こえているのに気が付いた。ハッと動きを止め耳を澄ましてみると、何か気配がする。自分と同じように今は動きをピタリと止めたようだが、息のもれる音がかすかに聞こえる。それもどうやら複数。

(……誰かいる)

 だが何も見えない。一体誰がいる? 自分の眼球の異変はこいつ等の仕業なのか?

 体を硬直させたまま、怒涛のような疑問が頭の中に溢れてくる。

 一体何者だ、何をしている、何故動きを止めた? 俺が相手の存在に気付いたからか? 俺に気付かれては困る存在なのか? 俺の命を狙っているのか? それとも全く違う理由で、俺をじっと見つめて視姦でもしているのか?

 勝手な想像が膨らむばかりで結局何も分からない。近くにいる何者かたちは何の行動も起こさず、誰も答えを教えてはくれない。緊張で喉が渇き、懸命に唾を飲み込む。

 そもそもここはどこだ? 今度は自分を包み込む空間へと意識を向けてみる。

 音の響きや空気の流れからすると四方を囲まれた部屋の中にいる気はする。妙に重苦しく閉鎖的で、何か生物とは違う厳ついモノ達に囲まれているような感覚。きっと自分の部屋ではない。……病院だろうか? それにしては雰囲気が妙だし、もし医者や看護師なら何か声をかけるはず……もしかして俺は誘拐されたのか?

 側にいる人間の正体と目的が不明のままなので少しためらったが、最小限の動きで手の平を地面にそっと当ててみる。ひんやりとして固い、石のような質感。やわらかいベッドではない事は寝ている感じでわかっていたが、遺体安置所のようなステンレスベッドの線もなさそうだ。

 そのまま両手ともゆっくり横にスライドさせて地面をなぞっていくと、自分の体から40~50センチほど離れたところで地面は途切れ、指は宙に浮いた。指を折り曲げると90度の角度に再び同じような質感。

 どうも石製の台のようなものの上に横たわっているらしい。どれくらいの高さがあるのか分からないが、体を動かさずにさわれるところまで台の側面をさわってみても地面には辿りつかない。最低でも地面から30センチは浮いているだろう。

 得られた情報はそれだけだった。

 絶望的なほどに自分の状況が分からないので、動くに動けない。体を起こすという行為さえもが命取りになるような気がした。第一、起き上がったところでこの真っ暗な視界では満足には動けないだろう。台の下が安全なのかもわからない。もし地面が汚物まみれだったら?  毒虫がウヨウヨいたら? 針の山だったら? そう思うとこの狭い台座の上に大人しく寝ているしかない。動くことによりレーザーで焼かれるかもしれないし、何かの仕掛けが作動してギロチンが落ちてくるかもしれない。爆弾の時限装置が動いてしまったらどうする。単純に周りの人間が殺しにくるかもしれないのだ。

 疑心暗鬼と強迫観念にとらわれて体を縮こませる。気をつけの姿勢のままただじっと、自分の呼吸と唾を飲む込む音だけを聞いていた。声を発することも許されない。彼は「自分は人形なのだ」と思い込み、自らの動きを封じた。

 もう一度自分を包む空気に意識を向けてみる。すると重苦しさの中に、今までにない程ネガティブに凍り付いているカビ臭い空気と、血生臭さを感じた。

 

 しばらく微動だにせず自分の呼吸音を数え続けていた。目覚めてからどれくらいの時間が経ったのだろうか。この無言の闘いを一体いつまで続ければいいのだ?

 何も見たくないなどと願ってはいたが、実際に視界を完全に奪われると周りを確認できない不便さと恐怖に襲われる。しかも失った視覚の分、聴覚や触覚が今まで以上の働きで身を守ろうとするためか神経がすごく消耗する。

 元々抜け殻同然で緊張感のかけらもなかった身、短時間とはいえマックス状態に張り詰めた神経にどっと疲れが出てきてしまった。変な瞑想状態にも陥りつつ、いまだ全身を包む倦怠感も手伝って、死臭のようなものが漂っているこのひんやりとした空間がだんだん居心地のよいものに感じてきてしまう。

(もう……なんか、どうでもいいか……)

 さきほどから周りには一切変化は起こっていないように思う。自分も含めこの空間にいる者たちはただじっと息を潜めている。

 ずっと閉じているはずのまぶたに重さを覚え、彼の意識は再び闇に溶けようとしていた。情報がない事と眼球の喪失に関する不安は残っていたが、幸いにも恐怖していた痛みや苦しみが伴っていない。いくら待てども自分に危害を及ぼそうとする動きも感じられない。それも彼の緊張を解きほぐす原因になってしまった。

(もういい……もう疲れた……どうせならばこのまま静かに、全ての感覚を失っていきたい……)

 筋肉のこわばりも緩やかに解け、周りの空気と融合するかのように彼は呼吸を繰り返していた。

 

 その時、急に顔面を覆われた。何も見えていない彼は感触で、己の顔に布のようなものが覆いかぶさってきたのを知る。

「……!?」

 何の前触れもなく起こった異変に体を硬直させるも、咄嗟に抗おうと布を引き剥がしにかかる。とうとう、同じ空間にいる自分以外の人間が自分を殺しにきたのだと思った。再び恐怖にかられ、死への誘いに抵抗してしまう。

「!?????」

 しかしジタバタともがくうちに、どうも誰かに押さえ込まれている訳ではないようだと感じ始める。どんなに暴れても相手の存在を感じない。蹴り上げる足は空を切るだけでなんの攻撃にもなっていない。ただ頭だけが、布と共に台座にぴったりと固定されてしまっている。布自体が台座から生えてきたというのか?

 頭が混乱する中、布は意志を持ったように彼の顔面に強くへばりつき、簡単には剥ぎ取れそうもない。痛みはないが鼻も口も同時に覆われているため息苦しさを覚え始める。首吊りの苦しみを思い出しギリギリと布に爪を立てた。しかし取れない。破れもしない。布は顔の皮膚と一体化してしまいそうなほど密着してきている。

 もはや体を左右に振るのが精一杯で必死にゴリゴリ動いていると、ふと、周囲から聞こえる音に意識が向いた。自分の暴れる音の外側で、よく聞けばドカドカと足をどこかへ打ちつける音、衣服の激しく擦れる音、うめくような声……複数の似たような音が部屋中に響いている。

 自分以外の人間も同じようにもがき苦しんでいる? 一体何なんだ? 何が起こっている?

 考える間もなく、ツンと頭の奥のほうが痺れだし、徐々に意識が遠のいていく。

(やばいやばい死ぬ!)

 抵抗する力が抜けてくる。体の末端のほうから痙攣が起こり始めている。

(喜ぶべき? 喜んで死を受け入れるべき? でも苦しい……死ぬ……死ぬ!)

 死に直面して出てくる言葉とは単純に「死ぬ!」なのだな……と脳の隅っこでぼんやり思っていた。

 …………ーケー……。

 その時、何か声が聞こえたような気がした。しかし何と言ったのか、誰の声なのか、考えているような余裕はない。そもそも耳鳴りレベルの音だ。

 ……スイッ…オン……。

 再び声がした。

 と思った瞬間、耳元でゴーッと風のような音が響き、布内部の空気が引っ張られる感じがした。それはまるで掃除機のノズルを布の中へ突っ込まれ空気を吸い出されているような、しかし布と顔が密着している今は顔面の穴という穴から全ての体液を吸い出されているような感覚。

 体内をぐちゃぐちゃにかき回されてそのまま強制的にゲロを吐かせ続けられているような、経験したことのない内部からの逆流を感じた。生きた心地のしない不快感。ビクッビクッと体の痙攣もひどくなっていく。全ての穴が逆流によって塞がれ、ほとんど息もできない。

(し、ぬ……も、どうにか、な、る……ぶっ壊れ……る!)

 一体今、自分はどのような状態なのか。本当に体液が放出されているのか、それともそう感じているだけなのか。気色悪さと息苦しさが体の細胞を壊していくようだ。眼球の抜けた眼窩からもなにかがゴボゴボと吸い出されて、その流れによってまぶたは押し開けられている気がする。

(……シ……ヌ…………)

 遠のく意識の中にチカチカッと光のようなものが見えた。これは脳が感じている光なのだろうか。眩暈を起こした時に見える現象に似ている……先に待つのはブラックアウト。終わる……終わる。

 観念という意識ももはや無いまま闇に溶けようとしたその時、ふっと息苦しさが和らいだ。そのまま消滅すると思っていた意識が繋ぎとめられ、ガハッと音を立てて息を吸い込んだ。――ような気がした。

(???)

 しかし息苦しさの緩和以外、自分の状況はさほど変わってはいない。相変わらず体内を吸い出される逆流は感じている。自由のない空気孔のどこで息をしているのか自分でも不思議である。

 そしてさっきのチカチカとした光が未だ治まっていない。どうやら眩暈の時のそれとは全く違うようで、チカチカと小さく瞬いていた個々の光は徐々に強く、しっかりとした光を放っていく。脳が感じている光にしては、視覚ではっきりと捉えているかのようにその白さまでも感じる。

 ぼんやりとした意識の中、辺りには白の勢力がどんどんと増し、黒の面積を侵食していく。

 白の面積が大きくなるにつれて、体内を吸い出されるような感覚もだんだんと快感に変わりつつあった。

(……あれ?……何か、……すごく気持ちいい……)

 痙攣でカチコチになっていた体がぐにゃりと弛緩していく。頭がうっとりととろけ始め、全身麻酔のような心地よい眠気が彼を襲った。

(ああ……ああぁぁ、……これこそ、自分の求めていた、甘美な死の感覚……俺はこの、身も心も溶けて、静かに眠るように消え行く死を、望んでいたんだ……)

 苦しみの先にようやく辿り着いた感覚に彼は身を任せた。

 自分の体の感覚も意識も、全てが真っ白な霧のように溶けていく。もう何も感じない。

(今度こそ、さよならだ……クソッ、た……れ……)

 そして完全に白になった世界に、彼の意識は飛んだ。

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